あの日食べたバターライスの不味さを僕達はまだ知らない。(実写版)

We still don't know the distastefulness of the butter rice we ate that day. (live-action version)

『朝日新聞による「偏向報道批判」批判』に対する批判

 『「偏り」攻撃 批判封じは間違いだ』とする1月10日付の朝日新聞の社説(http://www.asahi.com/articles/DA3S12152385.html
)が突っ込みどころが多すぎて自分の考えがまとまらないので自分の頭を整理するために書きたい。

 まず『「偏っている」/この言葉が、現政権と異なる考えや批判的な意見を強く牽制(けんせい)する道具になっている。』という部分。異なる意見を排除したがる勢力もいるのかもしれないけど、テレビ報道において異なる意見を無視することに対する批判も多くあるはずなのに、なぜそちらを無視して自分たちの批判に都合のいい極端な主張だけをあげつらって偏向報道批判全体がおかしいかのように批判するのか。これは批判というより印象操作と言ったほうがいいのではないか。
 この手口は「ネトウヨ」というレッテル貼りと同じで、右っぽい勢力のうちの極端な主張をする馬鹿(こいつらは実際に馬鹿)をあげつらってネトウヨ=馬鹿という印象を広めておきながら、「現実的な国防政策を支持する」という程度の穏健な右派やそもそも右でも左でもないような主張をする人たちまでネトウヨ呼ばわりして、「現実的な国防政策を支持する奴は馬鹿」と印象付けようとするのと似ている。

 ちなみに昨年9月に行われた朝日新聞世論調査によると、安全保障関連法に反対が51%に対して、賛成が30%(http://www.asahi.com/articles/ASH9N4TWPH9NUZPS004.html)とテレビの報道などから受ける印象ほどかけ離れた数字にはなっていない。

 この30%の意見を黙殺するなという主張は、片方の意見「だけ」を報道するのはおかしいと言っているだけのことであって、現政権を批判するなという意見は全く別物で、むしろ『指弾して相手を黙らせようとする』どころか黙殺して実質的に黙らせてるのは朝日新聞が擁護しようとしているTBSやテレビ朝日の側ではないのか。また『問題点を示し、議論するのではなく』とあるけど、議論を拒否したのは「放送法遵守を求める視聴者の会」の公開質問に回答しなかったTBSと岸井某の側ではないのか。

 次に『権力監視は報道機関の使命である。』という部分。権力の監視が報道機関の使命というのは定説のように言われてるけど何が根拠なのかよく分からない。メディアが権力の批判だけしてればその役割を果たしてることになるとは思えないし、また「権力の監視」をメディアだけに任せておけばいいとも思えない。
 そもそもメディア=媒体の役割は一義的には世論と国会などでの議論を媒介する(=メディエイト)ことなのではないのか。それをすることによって万人が「権力の監視」をすることが可能になるのではないか。その意味では政府がやろうとしていることを説明する責任は政府だけにあるのではなくて、メディアも理解が深まっていないと冷笑ばかりしていないでもっと積極的に政府の意図を解説しても良かったのではないか。権力を監視するというのならより深く政府の意図を理解する必要があるのだから。
 国会での議論を整理して国民に伝える、そして世論の反応を吸い上げるというメディアとしての本来の役割を果たしたうえでなら権力批判でも何でも好きなだけすればいいけど、自分たちと反対の世論を一切無視したうえで世論に影響を与えて自分たちの主張一色に染め上げようとする姿勢は全体主義的ですらあるし、この朝日の社説に至っては多様な意見を取り上げろという主張を、「批判封じ」とあたかも言論封殺を意図してるかのようなレッテルを張って、その実自分自身が気に入らない言論を封殺しようとしてるようにしか見えない。

 上記の引用に続く『政権批判を野党への支持だと決めつけるのは適切ではない。』の部分。なぜ権力の監視が政権批判だけという前提なのか。野党も権力だし、国民の3割を無視して自分たちの意に沿う意見だけを発信して世論に影響を与えたり、政治家の発言を伝えなかったり、発言を切り取ることによってその意図が伝わりにくくしたり誤解しやすくしたりすることができるマスメディアも政治家以上の権力だと言える。政治家じゃないけど発言の捻じ曲げの事例は下記に。
 権力は腐敗するので監視は必要だがその責を担う報道機関は間違いも犯さなければ腐敗もしないので監視の必要がない絶対的な正義で、その絶対正義たる報道機関のみが政府を評価して有権者には評価の結果のみを示せばいいと思っているのならあまりにも独善的なヒロイズムに耽溺し過ぎているのではないか。マスコミが政府を断罪するのではなく、有権者が投票行動によって評価を示すのが今の政治制度の本質であって、繰り返しになるけど、その判断のための材料を提供するのがマスコミの第一の役割なのではないか。
 ついでに言うと、マスコミが批判されるのは政治家以上に無能かつ有害だと思われてるからで、さらには政治家以上に、無能かつ有害な官僚の言いなりになっていると思われてるからではないか。失われた20年と呼ばれる政策の失敗を主導しているのは間違いなく官僚機構であり、言葉だけは勇ましく権力の監視と言いながら、実質的な権力である官僚機構が主導する政策に対して批判できないばかりか、戦中の大本営発表さながらに唯々諾々と従って誤った政策を推進する役割を担っているのだから。
 報道に批判精神が必要だという考えには一切異論はない。ただし、政府(自民党政権でも民主党政権でも)のやることには何でも反対というのは、何でも賛成と同じくらい批判精神の欠如した態度だと思う。その上、官僚の無謬性を信じるような輩のどこに批判精神があるのだろう?

 最後の段落。 『広くとらえれば、作り手と考え方の違う人も納得できる番組を目指すことだろう。ある事柄を様々な視点から見つめ、作り手の視線も相対化する努力を続けることで、少しずつ実現に近づく。(略)それを「偏っている」の一言で壊そうとする乱暴さを許してはならない。』
 『ある事柄を様々な視点から見つめ、作り手の視線も相対化する努力』のかけらも見えないから批判されてるわけだけど。ないものを乱暴に壊すことはできない。そもそも特に批判の的になっている岸井某の「メディアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という発言にはその努力が全く見えない。それどころか岸井某の発言こそが「多様な視点を持ち自身を相対化する努力」を否定するものと言ってもいいだろう。それが批判されているということは『ある事柄を様々な視点から見つめ、作り手の視線も相対化する努力』をもっとしろという批判であって、朝日が言うようなそれを『壊そうとする』ものではない。
 他人の主張を捻じ曲げる朝日新聞の言説こそが独善的で悪意に満ちた、言論の敵なのではないか。