あの日食べたバターライスの不味さを僕達はまだ知らない。(実写版)

We still don't know the distastefulness of the butter rice we ate that day. (live-action version)

ニーチェと少女漫画

作者に都合のいい世界と女に都合のいい男

 少女漫画の、というか少女漫画にありがちなことで、嫌いな所が二つある。一つはやたらと交通事故が多い所(書いたときはそう思ってた(というか自分の中の統計上では実際そうだった)けど、そうでもないかも)。もう一つは女に都合のいい男(大概はメインじゃなく二番手の男)が出てくる所。
交通事故は作者の都合で突発的に何時でも起こせる悲劇。だから、登場人物は物語の世界の神である作者に翻弄されてるだけ、という感じがする。ここでこいつ死なせたら面白いな、っていう作者の安易さが見える(ことが多い。例外もあるので、一応)。
二番手の男は性格、ルックス、能力、全て完璧で、しかもヒロインにベタ惚れで常にヒロインの味方。最初の内はいい奴だなって思えるんだけど、だんだんむかついてくる。典型的なのは「僕等がいた」の竹内。

ニーチェによって解けたかもしれない少女漫画の謎

 「二十一世紀に希望を持つための読書案内」は読書エッセイアンソロジーで収められてるのは村上陽一郎阿刀田高木田元などなど。その中の木原武一のエッセイをたまたま読んだ。タイトルは「頭をガツンと一撃されたかのように」、紹介されてるのはソローの「森の生活(ウォールデン)」とニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」。
 著者は「生活や思想は借りものであってはいけない」というソローとニーチェに共通するメッセージを読み解いて、最後に「ツァラトゥストラ」からの引用で締めている。その部分が一つの疑問と繋がった。

「われわれはしっかりと自己の上に腰をすえ、毅然として自分自身の両脚で立たなければ、愛するということはできないものだ。結局のところ、このことをいちばんよく知っているのは女たちである。彼女らは、自我のない、単にものわかりがいいだけの男などは相手にしない」

 少女漫画のヒロインが、あの自分にとって都合のいいはずの二番手の男をなぜ選ばないのかという謎に対する、少なくとも、いくつかある答えのうちの一つだと言えると思う。


←を文庫化したもの→