あの日食べたバターライスの不味さを僕達はまだ知らない。(実写版)

We still don't know the distastefulness of the butter rice we ate that day. (live-action version)

萩尾望都

横森理香萩尾望都

まだ一部しか読んでないけど、横森理香の「恋愛は少女マンガで教わった」に大人になりたくない少女が自らの女性性を嫌悪する、みたいなことが書いてあった(微妙に違ってるけど)。それを読んだ時は気付かなかったけど、そのことが「11人いる!」の裏テーマになっているというか、「大人(というより女)になりたくない少女」へのメッセージが「11人いる!」に込められてるんじゃないか、と2~3日前にふと思って、再読してみた。まずは横森理香著「恋愛は少女マンガで教わった」からの引用。

 “おぼこ”ゆえの潔癖性。潔癖性の少女たちは、性的なものを嫌う。“女”になることを拒否するのである。
 “性”から逃げたいのに、まわりは自然に、どんどん成長していく。いやらしいと思いながら、自分だってそういうことに興味がないわけではない。幼稚な頭では理解できなくても、体は成長し、欲するからだ。
 少年のようなしなやかな体から、どんどんムダな贅肉がついて、“女”になっていく少女たち。その嫌悪から、マンガの中に描かれる“少年愛”に走るのである。自分はその中では、自分にとって「きれいな存在」である、“少年”になれるから。女みたいにねっちりしてないし、したたかでも、ずる賢くもなく、もっとさっぱりしてて、男同士の友情に熱い――。(p.104-105)

ついでに

少年愛云々はともかく、と言いたいところだけど、ついでに思ったことを書いてみる。
横森は萩尾望都のファンだったらしいのだが、理由は「ベースに思春期の少女のド繊細な気持ちや感情と、同性愛傾向が描かれながら、生々しい“そのシーン”は、いっさい描かれていないから」(p.104)とのこと。例として「トーマの心臓」「11月のギムナジウム」「ポーの一族」が挙げられている。
今の少女漫画に、このような淡い少年愛みたいな作品はあるのだろうか?自分はなくても困らないけど、あまり露骨な、というか生々しいというか現実的というか、異性愛ばかりでは味気ない気がする。
横森は63年生まれで、上記のような70年代の萩尾作品をほぼリアルタイムで読んでいた世代。なので現代の「少女」にどれほど当てはまるかは不明だけど、ともかく以下が本題。

11人いる!

「11人いる!」は萩尾望都(はぎお・もと)作、宇宙学校の入学試験を舞台にしたSFサスペンス。11人目は誰なのかとタダ(主人公)の記憶の謎、そしていかに試験を突破するか、というのがメインのサスペンス&青春物語。で、裏テーマの主人公はフロル。見た目はどうみても女(というか美少女)だが女扱いされるとぶち切れる、言葉使いが汚いというのがフロルの特徴。実は性別未分化(つまりこれから男か女になる)で、星のしきたりでホルモン投与によって女にならされるところを、合格すれば男になってもいいという条件で試験に挑んでいる。
最後のフロルの決断が「女になりたくない少女」への著者からのメッセージになっている、というのが自分の読み。再読して確信を強めた。
余談になるけど、続編の「東の地平 西の永遠」(「11人いる! (小学館文庫)」に併録)は名作悲劇といっていいと思う。

恋愛は少女マンガで教わった (集英社文庫)
発売日:1999-10
11人いる! (小学館文庫)
発売日:1994-11
Amazy

萩尾望都とレイモン・ラディゲ

萩尾作品に関連してもひとつ。「11月のギムナジウム」の最後のページにトーマの部屋の本棚があって、そこにラディゲの「肉体の悪魔」があるのを見付けて気付いたのだけど、ストーリー設定がもろに「肉体の悪魔」というか、「肉体の悪魔」のその後って感じ。舞台も名前も違うけど。

11月のギムナジウム (小学館文庫)
発売日:1995-11
肉体の悪魔 (新潮文庫)
新潮社
発売日:1954-12
Amazy