あの日食べたバターライスの不味さを僕達はまだ知らない。(実写版)

We still don't know the distastefulness of the butter rice we ate that day. (live-action version)

短編小説あれこれ

モーパッサン「首かざり」

 今までに書かれたあらゆる小説のなかで最も残酷な物語が「首かざり」である。幼き日の私はこの一篇を読み終えて殆ど作者を憎悪した。人の世の実相を見抜くこと炬(きょ)の如き眼光に敬意を払うこと吝(やぶさ)かではないし、思いも寄らぬ奇抜な筋書きを考えた作者の構想力に感嘆はするものの、これほど惨めな人生を描いて指し示す権利が作者にあるのだろうかと憤りを覚えたのである。

谷沢永一『人間通になる読書術・実践編』(PHP新書) p.19)

 これはモーパッサンの「首かざり」(『モーパッサン短編集 II』 (新潮文庫)所収)について書かれたもの。これを読んでから「首かざり」を読んでみたけど、サキの短編みたいな落語のオチみたいな感じで、そんなオチかよって笑っちゃった。谷沢の書いてることに対しては、そんな怒ることないんじゃないの、短編だしって感じ。

 夏目漱石は『首飾り』など落ちが目立つ短編を読んで、この作者の書き方を不真面目で、読者を馬鹿にしていると激しく反撥したが、『ピエールとジャン』には讃辞を惜しまなかった。

阿部昭『短編小説礼讃』(岩波新書) p.30)

 こっちに関しても短編だし別にいいんじゃないのって感じ。「首かざり」に関して自分なりにけちを付けるなら、女の特に容姿が衰えて行く様の描き方が執拗でいやらしいと感じた。サキのようなスマートさはない。


GUEST 047/脚本家・山田太一:スミスの本棚:ワールドビジネスサテライト:テレビ東京

フランス文学界の糸井

谷崎氏の文章はスタンダアルの文章よりも名文であろう。殊に絵画的効果を与えることはその点では無力に近かったスタンダアルなどの匹儔(ひっちゅう)ではない。しかしスタンダアルの諸作の中に漲(みなぎ)り渡った詩的精神はスタンダアルにして始めて得られるものである。フロオベエル以前の唯一のラルティストだったメリメエさえスタンダアルに一籌(いっちゅう)を輸したのはこの問題に尽きているであろう。

芥川龍之介文芸的な、余りに文芸的な」(『侏儒の言葉文芸的な、余りに文芸的な』(岩波文庫) p.126) カッコ書きは省略した。ラルティストに注釈があって『[仏]l'artiste 芸術家。』)

西鶴は、世界で一ばん偉い作家である。メリメ、モオパッサンの諸秀才も遠く及ばぬ。

太宰治新釈諸国噺」(『お伽草紙』(新潮文庫) p.48))

 スタンダールフローベールモーパッサンは分かるけど、メリメってそんなに凄いのか?プロ野球で言うとダルビッシュより凄いって言われるとプロ野球ファンじゃなくても凄いって分かるけど、糸井より凄いって言われても野球に興味がない人にはそれって凄いの?って感じだけどプロ野球ファンからしたらどんな化け物だよってなるようなものかな?
 「新釈諸国噺」と「お伽草紙」は小谷野敦著『バカのための読書術』(ちくま新書)の「バカのための年齢、性別古今東西小説ガイド」に載ってたのを見て買った。まだ途中までしか読んでないけど、さすがに面白い。「竹青」も同じ新潮文庫に入ってる。


吉村昭「帰艦セズ」

 災害関連の本の人気の影響で吉村昭のほかの本も重版されたみたいで、前から読んでみたかった「帰艦セズ」(『帰艦セズ』(文春文庫)所収)を読んだ。主人公が、戦時中北海道で軍艦に乗り遅れて餓死した兵士について調査をする話で、『真相の追究をはじめた男の前に、驚くべき事実があきらかになってゆく……。』(裏表紙より)とのことだけど、主人公(『真相の追究をはじめた男』)自身が元軍人で戦闘機(日本軍の)を爆破して逃亡して死刑判決を受けてたって設定のほうが衝撃的すぎる。
 泊まった場所を忘れたってところでサキの「宵闇」(『サキ短編集』(新潮文庫)所収)を思い出した。重さが全然違うけど。新潮文庫は全編読んだけど「宵闇」が一番面白かったかな。重層的に読者を騙す仕掛けになってて上手い。全体的にサキは読みにくかったけど新潮文庫はこれでも読みやすくなったらしい。
http://www.online-literature.com/hh-munro/1809/


新田次郎『先導者・赤い雪崩』(新潮文庫)

「稼村さん、人を殺せるところはいたるところにありますよ、あの御茶ノ水の橋の上からだって、この喫茶店の窓からだって、突き落とせばたいがいはアウトだ。ただ、それが容易にできないというのは、人の目もあるし、なによりも、ゆび一本ではそれができないということだ。ところが山ではゆび一本動かせば、人は簡単に殺せる場所がいくらでもある」
 山ではゆび一本で人が殺せる――なんといやな言葉だろう。稼村は顔をしかめた。

(「蛾の山」 p.200)

 この部分が新田のいわゆる「山岳小説」の魅力を端的に表していると言っていいと思う。必ずしも殺人が起きるわけではないけど、その緊張感という意味で、殺人が起きない作品にも共通してるような気がする。

 坐ると、百合子の膝が出る。口では勇ましいことをいいながらも、スカートの裾で膝を隠そうとしている百合子の手つきが、中村のおし静めているものを呼びおこしそうだった。

(「登りつめた岩壁」 p.128)

「私はあなたひとりがたよりなのよ」
 玲子は、稼村が来るときっとそれを言った。たよりになる男によりかかってくるのなら、しっかり抱きしめてやってもいい。が、彼女がたよりになるというのは、片棒かつげという意味に聞えた。

(「蛾の山」 p.205)

 こういうちょっと表現しにくいような微妙な感覚や所作を簡潔かつ適切に表現してるところが好き。特に上のは性的な表現って意味でも凄く好き。
 同時期に松本清張の短編も読んでて、生年、書かれた時期が共に近かったので同じような時代の空気を感じた。文章の質だけで言ったら新田のほうが上手い、美文だと思った。


松本清張

 清張のとりあえず一冊目は『宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション <上>』(文春文庫)か『張込み―傑作短編集(五)』(新潮文庫)で良いんじゃないかな。両方買うと「地方紙を買う女」と「一年半待て」がダブる。宮部編の第二章は「マイ・フェイバリット」という章題で、特に好きな四編ということなので、そこから読み始めた。「地方紙」と「一年半」はその四編に入っている。
 その四編のうち、殺人事件が起こらない「削除の復元」が一番人間不信を抱かされるような感じがして怖かった。


山本一力編『おれっちの「鬼平さん」―池波正太郎鬼平犯科帳」傑作選』(文春文庫)

 「鬼平犯科帳」は前から読んでみたかったけどどれを買えばいいのか分からなかったので、手頃な編集版が出たのはありがたい。全編読んだけどどれも面白かった。

「長谷川さまは、先代・狐火の妾のお静さんとできちまった。それをまた、まだ十二か十三のおまさが、小むすめのやきもちをやいてねえ」
「そんなことが、あったのか……」
「とぼけちゃあ、いけませんや」
「あのころの、おまさは、まだ子どもよ」
「女の十二、三は、躰はともかく、気もちはもう、いっぱしの女でござんすよう」

(「狐火」 p.120)

 やっぱりこういう表現が好きだった。小説を読んでからドラマを見ると梶芽衣子が貫禄ありすぎだった。あとは食べ物が美味そうという評判はその通りだった。